太田の自然・文化・歴史

石造物・石碑

石造物 路傍の石造物は、都会と田舎とを問わず、日本中どこにでも見られる。あるものは功労をたたえた碑であり、あるものは信仰の対象としての仏像である。またあるものは地域の守護神として、あるいは道しるべとして置かれている。さらには大工事の完成を記念するものもある。これらは、そのことを長く後世に残したいとか、いつまでもそこにあってほしいとの願いをこめて、石で造りあげたものである。
 太田地内の岩崎は、かつて「太田石」とよばれる石材の産地であった。太田石は、広く富山県呉西地域全体に搬出された。今、地域内の石造物を見ても、太田石を用いたものが多い。
 石碑、墓標、石仏など、そうした石造物の中で最も多いのが石地蔵である。田中の小道の脇に、村の辻に、寺の境内に、そして峠の上や森の小径などにも見られる。これらの石地蔵は、どれも親しみやすく、ほのぼのとした温かさを感じさせる日本の風物詩である。
 では、どうしてこのように多くの石地蔵があるのか。また地蔵とは何であるのか。以下、太田地区にある石造物・石碑それらのことについて述べてみよう。


仏と菩薩

我々は普通、如来、菩薩、明王などのいずれをも仏とよんでいる。如来とは、仏教でいう悟りを開く、つまり最高の理想的境地にある「仏」という意味で、完全無欠の人格を象徴している。釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来などがこれにあたる。菩薩とは、如来となるために修行中の身のことである。ここで大切なことは、悟りを開くための修行には、単に自分だけが悟りを求めるのではなく、他人をも救う(悟りの道へ誘う)行いが含まれていることである。そのことから菩薩とは、単に仏になるために修行中の身というよりも、「仏」の資格があるのに、人々への慈悲のあまり、現世で汗とちりにまみれながら、民衆の救済に努力しているのが菩薩であると信じられるようになつた。観世音菩薩、地蔵菩薩などがこれにあたる。これらの菩薩は、日本で最も崇拝されている仏で、観音さまとか地蔵さまとよんで親しまれている。観世音菩薩は、今の世でのしあわせを目的に信仰されているのに対し、地蔵菩薩は、そのほかに、死者の罪を救って極楽へ導く菩薩として信仰されている。


如来像と菩薩像

 如来像は僧の姿をしており、かざり物はいっさいつけていない(僧形または如来形という)。しかし、人間とはちがう特色を三十二もそなえている(三十二相八十種合または相合という)。その例を三つだけあげてみよう。
 それは、第一、頭にもとどりのような形をした肉のかたまり(肉髻)がある。
 第二、ひたいにひとかたまりの白い毛(白毫)がうずをまいている。
 第三、手のひらや足のうらに車のような形のもようがある (手足千輻輪)などである。
しかし、この特色は、どの如来像にも共通しているので、釈迦、薬師、阿弥陀を見わけるためには、手の位置や指のまげ方の違い(印相)を確かめてみなくてはならない。如来像の右手は不安を除くという意味の施無畏印を、また左手は願いを叶えるという意味の与願印をあらわしている。
 ところが釈迦如来と薬師如来の手の位置や指の曲げ方はよく似ており見分けのつけにくいものが多い。けれども、薬師如来はたいていの場合、左手に薬の壺を持っているので、そこで区別することができる。阿弥陀如来の印相は九種類もある。
 しかし、どれも特徴がはっきりしているので見分けやすい。大日如来像は、頭に冠をいただいていることが、他の如来像との大きな違いである。また印相は、胸の前に手をあげ、一方のこぶしで他方の指をにぎった形 (知券印)をとっている。この形は、考えをまとめ、決心して行動に移ろうとする直前の動きを表しているのだという。忍者の結ぶ印は、このことからヒントを得たのであろう。
 菩薩像は頭に宝冠をつけ、身体にたくさんの飾り物を着けているので、如来像と区別しやすい。観音様として知られている菩薩は、皆このような姿をしている。地蔵菩薩は、如来と同じように僧の姿をしているが、頭が丸く、肉髻がないのですぐわかる。このように仏像が表している意味や形を知った上で、路傍や寺院の仏像を見たとき、それが如来か菩薩か、またどの如来であるかを知らなかった時とは違った親しみや感懐をいだくことができるであろう。


地蔵尊

地蔵尊 地蔵は道端の草の中、死者を葬った所、村の境、子供の遊び場と、どこにでも見ることができるので、この菩薩こそ、本当に人間の暮らしとともにある仏という感がする。地蔵ほど人々に親しまれ、人々の喜びや悲しみとともにある仏は他にない。
 風化し、苔むして顔かたちも定かでない路傍の地蔵を見ると、何とはなしに村の長い歴史を感ずる。地蔵尊地蔵菩薩は、この世に住む人々に幸せや救いをもたらすばかりか、死後にも救いの手を差し伸べてくれる仏だと信じられている。
とりわけ子供を守ってくれる仏だということで、平安時代以降、宗派を超えて、どの仏よりも多く造られ、強い信仰を受けてきた。現在でも交通事故や山・海での遭難が起こった時、肉親や友人の手で、その場所に地蔵を建てることが、広く行なわれている。
地蔵尊 地蔵菩薩は六道(地獄、餓鬼、畜生など六つの迷いの世界)で苦しむ人々を救ってくれる仏だということで、六体の地蔵を立てる信仰が起こった。これを六地蔵といって墓地や火葬場の入口に建てられることが多い。地蔵菩薩がこの世でも死後の世界でも人々を救ってくれる仏だということから、地蔵信仰には様々な形が生まれてきた。まず地蔵は子供を救う仏だという信仰は、根強い力を持っている。地蔵祭りに、何らかの形で子供が参加することは、どの地方でも見られることである。
地蔵尊 このほか、土地の特殊な伝説に結びついた、氷見市朝日山小橋の「酒のみ地蔵」、同市唐島の「火ともし地蔵」、同市上日寺の「餅くい地蔵」、光禅寺の「子安地蔵」などがある。妊娠を祈る「はらみ地蔵」とか、長命を祈る「長命地蔵」といったものも、あちこちで見られる。
 平安時代、貴族の中から起こった地蔵信仰は、鎌倉時代から庶民の中に広がり、いろいろな土俗信仰と結びついて今も生きている。どの地蔵尊にも、絶えることなく花が供えてあることからみても、この地蔵信仰が、どんなに人々の生活の中に入り込んでいるかがよくわかる。
 地蔵祭りは、毎年8月23日に行われる。


太田地内の石仏

 太田地内には、かなり数多くの石仏がある。百体近くの地蔵や観音像が集中的に見られる国泰寺墓地をはじめ、太田小学校で確認したものだけでも二百体を超える。主要道や農道の路端に、浜の松林の中に、山の墓地に、そして変わった所としては、絶壁に掘った穴の中や、岩上の土管の中に安置されているのもある。
 近くに太田石を産出する石切り場があったため、太田石(砂岩)に彫ったものが多いけれども、花崗岩や青石を用いたものもある。堂の中にあるものも野ざらしのものも、おしなべて風化したものが多い。これらの石仏は地蔵ばかりでなく、中には如来像や観音像、あるいは明王像も含まれているらしいが、ほとんど見分けがつかなないため、すべて地蔵さんと呼ばれている。太田地内の地蔵・石仏も、他の地方と同じように、供えられる花の絶えることがない。


六地蔵

六地蔵六地蔵 太田地内では、辰ノロ(県道と桜谷古墳道の出合い角)、中村の墓地、旦保の火葬場跡地、伊勢領の墓地、山岸の入口などにある。
 六地蔵の意味は前に述べたが、太田地内にあるこれらの六地蔵が、いつ作られたのかよくわからない。  


首切り地蔵

首切り地蔵 首切り地蔵は、雨晴駅の北側松林の小さい堂の中にある。
 昔、上杉謙信が森寺城を攻めるため、軍船を連ねてこの沖合いに差し掛かったところ、船が少しも動かなくなった。謙信の武将、鯵坂長実は不思議に思い、きっと魔神の力に違いないと思い上陸したところ、松と松の間にある一体の地蔵がニコニコと笑っていた。長実はこいつの仕業に違いないと、一刀のもとにその首を切り落としたところ、船はたちまち前進して、目的地に向かうことができたという伝説がある。
 首のない地蔵は、太田地内にはいくつもある。中には地蔵祭りのために式場へ運ぶ途中、落して首を損壊した地蔵もあるそうだ。また博徒が、地蔵の首を持っていると博打に勝つという言い伝えを信じてひそかに首を取っていったものもあると言われている。


仏心寺の地蔵

仏心寺地蔵 氷見市の仏心寺は、西田部落のすぐ近くにある。この寺に身の丈2m余という大きな地蔵がある。元は大阪にあったが、山陰へ出して船に積み、伏木を経て今の地に運び、安置したものだという。海上で時化に遭い、同行していた三隻の船の内、この地蔵を乗せた船だけが無事だったのだそうである。岩崎の険しい坂を越す時、道が狭かったので、蓮台の一部を打ち欠いて、やっと運んだと言われる。 太田の付近では他に見られぬほど、立派な地蔵である。


国泰寺の墓地

 ここにはたくさんの地蔵がある。大木の根方に端然と坐っている地蔵、墓標の傍に立っている地蔵、死者の法名を刻み込んだ地蔵、墓石に刻み込まれた地蔵などと共に観音像もある。 墓地というと暗い感じがするが、国泰寺の墓地は、きれいに整備されてある上に、たくさんの地蔵と観音像があり、明かるく清々しい気がする。死者の供養と冥福を祈る人々の気持ちがうかがえ、今も根強く地蔵信仰と観音信仰の生きていることがわかる。
国泰寺地蔵 国泰寺地蔵 国泰寺地蔵


土仏坂と石仏

 桜谷古墳群のある台地から、いくつもの石仏が発見されたそうである。近くの堂の中に、それらしいものが何体もまとめて安置してある。長い年月、土中にあったり、風雨にさらされてきたためか、顔かたちのはっきりしていないものが多い。
 土仏坂をずっと上へ進むと、右側の山かげに雑草や笹に覆われて、壊れかけた堂がある。この中に、花崗岩で作った見事な石仏がある。頭部の形から見て、如来像であることは間違いがない。 


不動明王

 観音菩薩、地蔵菩薩とともに、庶民の中で深く信仰されている不動尊は、大日如来が悪魔を討ち払うために姿を変えたものと言われる。右手の剣や背に負った火炎、それに恐しい顔つきはその象徴である。また左手に持った縄は、自由自在を表すと言われる。昔から不動尊は水に関係が深く、水辺、滝、泉、井戸のほとりに安置されることが多い。不動明王
 太田地内でも、辰ノロの通称沢の寺(慈眼庵)の跡や、山岸の江雲庵の井戸端に小さな不動尊がある。また近くでは宮田地内の実相寺に、等身大の不動尊がある。どの不動尊も、いつ、どうしてそれが安置されるようになったのか伝えられていない。


伊勢領の観音

伊勢領の観音 朝日山観世音出現霊跡の石柱が立っている場所背後の砂丘上に観音堂がある。ここに安置されている観音像には、夢枕に立たれた観音菩薩のお告げを受けた近くの村人か、砂丘下を流れる川に架けられた橋の根元を掘ったところ、お告げの通りに観音像が現れたので、砂丘上に堂を建てて安置したのだという言い伝えがある。このことから、観音信仰が地蔵信仰と同じように、庶民の中に根付いているのをうかがうことができる。


道しるべ

道しるべ 西田へ通じる道と旧街道が分かれる中村の三叉路に「左西田国泰寺へ」と刻まれた石造の道しるべが、忘れられたように残っている。西田や谷内に通ずる道を進み、有磯神社を過ぎたあたりの右側草むらに「是より島尾への近道」と書いた道しるべがある。また、渋谷川を遡って谷合いを進むと「古池ケ谷の湯へ四丁」と刻んだ石の上に、地蔵を安置した小さい堂がある。
道しるべ昔、旅人にとって路傍や辻に立ててある道しるべは、地蔵とともに、旅の不安をやわらげる大切なものだった。
 国道や県道に設けてある道路標識や行先指示板は、ドライバーにとって何よりも頼りであるが、道しるべは、それらと比べものにならぬほど、昔の旅人にとって大事なものだったに違いない。しかし、そんな道しるべも年を追って失われ、今は残り少なくなってしまった。


その他の石造物

 墓地へ行くと、黒みかげの立派な墓石の横に、苔むした墓標がある。古い墓の傍らに、五輪塔の残りが、ひっそりと置かれているのを見ることもできる。
 五輪塔や宝篋印塔の残欠は、太田地内にかなり残っており、古い時代の信仰をしのばせてくれる。松太枝神社の横に、石切り場で働く人をたたえた大きな石碑がある。石の産地だった太田にふさわしい遺物と言うことができる。巨大な石柱としては、朝日山観世音出現霊跡の碑名と国泰寺の石標、それに、桜谷古墳から出土した神鏡の記念碑がある。
 太田には石仏をはじめとして、いろいろな石造物がたくさんある。これらを造った動機はそれぞれ異るであろうが我々はこれらから、先祖のどんな意志や願いをくみとり、どのように活かしていけばよいのであろうか。


【参考・引用】
「太田」−歴史と風土−