太田雨晴の概要Overview

太田雨晴地区は、雨晴海岸をはじめとした美しい自然と、すばらしい文化と歴史が息づく地区。そして万葉のふるさとでもあります。
ここでは、太田雨晴地区の概要をご紹介します。
雨晴の地名の由来
太田には、1187年(文治3)、源義経が兄頼朝から追われて、北陸から奥州へ向かう途中、太田を通った時、にわか雨が降ったので、弁慶が岩を(のちの義経岩)持ち上げて、雨が晴れるのを待ったという“いい伝え”があります。その伝説から、氷見線の駅名として【雨晴】と名づけられたと言われています。
中国では、【雨晴】という語句が使用された漢詩が三篇あります。
- 杜甫の「中丞厳公雨中…」…何日雨晴雲出渓 白沙青石先無泥
- 柳宗元の 「嶺南江行詩」…山腹雨晴添象跡 潭心日暖長蚊涎
- 杜牧の「長安雑題詩」…雨晴九陌鋪江練 嵐嫩千峯畳海涛
また、<雨過天青>という五代後週の時、江南省開封府で焼かれたと伝えられる磁器で雨後の空のような青色の磁器があります。 このように、中国では、【雨晴】という言葉が、いい意味で使われています。
“いい伝え”からつけられた【雨晴】という地名を駅名(本来なら太田駅)に使われているのも全国的に珍しいと言われています。
太田雨晴の概要
位置
太田は、高岡市の象徴である二上山の北にそびえる大師ケ岳から派生する台地と二上山から北にのびて富山湾に落ちこむ渋渓から北西に広がる海岸平野を主舞台とする東西4.1km、南北3.47km、面積7.57k㎡の地域である。
特性
太田は高岡市の最北端に位置し、南東部には、全域の2/3を占める山地がひろがり、伏木や高岡市の中心部からへだてられている。北西部は開いて氷見平野に接し、残る一面の北は海に臨む。そうした関係で、行政的にも生活的にも、太田は長い間、氷見地方の中に含まれていましたが、 昭和28年、氷見郡から高岡市に編入されました。
交通
太田の交通事情は、わりあい恵まれている。JR氷見線の雨晴駅と島尾駅が、太田小学校の東西それぞれ1.5kmの地点にあり、また、国道415号が太田を東西に貫き、バスが走っている。平成14年6月29日、新雨晴トンネルが完成し大型バスも楽に通れるようになり、また歩道も完備されたことから伏木方面から太田・雨晴そして氷見へのアクセスが非常に便利となった。
また、能越自動車道の開通により、高岡北ICからのアクセスが便利になり、北陸新幹線の延伸により、関東圏からのアクセスがより便利になりました。
部落構成
太田は、西田・谷内・山岸・旦保の山縁集落と、伊勢領・中村・辰ノロ・雨晴の砂丘集落とからなっている。全世帯数では、砂丘の4集落が全体の3/4以上を占めている。
世帯・人口
明治以降、順調に世帯数・人口ともに増加してきたが、戦後のベビーブームをピークに人口が停滞してきている。最近は、少子化・核家族が進行し世帯数だけは増加し、一世帯あたり人口は3.7人と4人を割っている。(平成14年現在)
年 | 明治22年 | 明治40年 | 大正14年 | 昭和5年 | 昭和30年 | 昭和45年 | 平成14年 | 平成23年 | 平成30年 | 令和5年 |
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人口 | 1.682 | 1,875 | 2,111 | 2,272 | 3,301 | 3,197 | 3,142 | 2,763 | 2,445 | 2,142 |
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